3.解像度主義(Resolutionism)

 Cougarの「解像度主義」は、低解像度の見た目そのものを作品の特徴とするために生まれたものではない。解像度を通して、人がどのように色や形を一つの像として認識するのかを、絵画として考える試みである。

 

1. 始まり

 そのルーツは、S-VGA液晶が使われていた時代に遡る。

当時Cougarは、限られた解像度の画面で、写実的なキャラクターを表現する方法を試行錯誤していた。画面に表示できるピクセル数や色数には制限があり、細部をそのまま描くことはできない。そのため、人の目に自然な像として見えるように、どの色をどの位置に配置すればよいのかを考える必要があった。

「限られたピクセル数の中で、どこまで写実的に見せられるか」

それが当時取り組んでいた課題である。

 

 その後、プロジェクト自体は技術的な問題を解決できないまま中止となったが、Cougarは個人的に試行錯誤を続け、限られた画面の中で写実的な像をつくる方法を身につけていった。ところが、その一方でディスプレイや画像処理技術は急速に進歩し、画面の高解像度化とともに、ハードウェアやソフトウェアの性能も向上していく。やがて写真や人物、風景など、ほとんどあらゆる像を細部まで精細に表示できるようになると、かつて必要とされた「低解像度の中で写実的に見せるための工夫」は、次第にその役割を失っていった。

 、その表現方法を発表する機会がないまま時が過ぎ、Cougarの手元には、その方法を使って描いた一匹の犬のドット画が残された。描かれていたのは、全身を長い白い毛で覆われたグレート・ピレニーズという犬種である。

 

2. 油絵への置き換え

 後年Cougarは、このデジタル上のドット、つまりピクセルを、油絵具による「ひとつのマス目」に置き換え、ピクセル状の犬の絵を制作した。すると、デジタル画面の中では意識していなかった別の現象が見えてきた。作品を近くで見ると、一つひとつのマス目は、それぞれ独立した色面として見える。しかし、そこから少しずつ距離を置いていくと、それまで別々に見えていた色面が視覚の中でまとまり始め、ある距離に達すると、一匹の犬として見えてくる。デジタル画面で身につけた表現方法が、油絵という物質を持つ作品へ置き換わったことで、その方法の意味も変わったのである。

かつて考えていたのは、

「低解像度の中で、どこまで写実的に見せることができるか」

という問題だった。

しかし油絵では、

「どの距離で、色の集まりが一つの像として見え始めるのか」

という別の問いが現れた。

 

 像を構成する色と形の関係そのものは、大きく変わっていない。変わったのは、その像が存在する場所と、それを見る方法である。

ディスプレイの中にあったデジタルの像は、油絵具という物質を持った絵画へ変わり、それまで画面を近くから見ることを前提としていた像は、作品との距離を変えながら見るものになった。

一方で、変わらなかったこともある。

 それは、限られた色と形から一つの像を成立させる最後の部分を、結局は人の知覚に頼っていることである。作品そのものは変化しない。それでも見る距離が変わることで、それまで色の集まりだったものが一匹の犬として現れる。デジタル画面の中では、解像度は写実的な像をつくるために与えられた技術上の条件だった。ところが、それを油絵に置き換えると、同じ解像度が別の意味を持ち始める。

 近くでは一つひとつの色面として見えていたものが、距離を置くことで次第にまとまり、一つの像として現れる。その変化を実際の空間の中で見ることができるようになったことで、解像度は単なる画像の細かさではなく、色の集まりがどのように像へ変わるのかを確かめるための条件になった。

そしてCougarは、その過程に、色の集まりが一つの像として認識される境界があることに気づき、その境界を**「知覚の臨界」**と考えるようになった。

 

3. 写実への問い

 油絵に取り組むようになった頃、Cougarは写実絵画について、もう一つの疑問を持っていた。

写実表現では、より細かく描くこと、より正確に描くこと、より写真のように見せることが、技術の高さとして評価されることが多い。もちろん、そのような写実表現には高度な技術が必要であり、その価値を否定するものではない。しかし同時に、「写実絵画の発展は、より細かく、より高精細に描く方向だけなのだろうか」

という疑問が生まれた。

 細密さを競い続けるだけでは、写実表現そのものに新しい方向を示すことが難しいのではないか。そう考えたとき、過去の経験が再び意味を持ち始めた。低解像度の画面では、細かく描けなくても写実的な像を成立させることができた。犬の毛を一本一本描かなくても、色と形の配置によって毛並みを感じることができる。目の細部を描かなくても、少ない色面の関係から視線や表情を感じることがある。写実性とは、情報量の多さだけではなく、限られた情報からどれほど対象らしい像が成立するかによっても生まれる

 こうして、かつての問いは新しい方向へ進んでいく。

 

 過去には、

「低解像度なのに、どこまで写実的に見せられるか」

を考えていた。

 それが油絵では、

「どこまで情報を減らしても、写実的な像として見えるのか」

という問いへ変わった。

 

 以前は、低解像度は克服しなければならない技術上の制約だった。しかし現在では、その制約をあえて作品に取り入れることで、人がどのように像を認識しているのかを考えるための方法になっている。

 

4. 解像度主義

 解像度主義でいう「解像度」は、単に画像のピクセル数やdpiだけを意味するものではない。一つの像を成立させるために、どれくらいの情報を残し、どこを省くのか。色をどのように並べ、一つひとつの色面をどの大きさにするのか。そうした像を構成する情報の量と、その配置を考えるためのものである。さらに、その像が実際にどのように見えるかには、作品そのものの大きさや鑑賞する距離、光、そして見る人の記憶や経験も関わってくる。

 こうした条件が重なることで、同じ絵でも見え方は変わる。

低解像度の作品では、対象についてのすべての情報が描かれているわけではない。しかし人の目は、そこにある色や形を結びつけ、記憶や経験も使いながら、足りない部分を補っていく。つまり低解像度には、見る人が自分の知覚を使って像を成立させる余地が残されている。そこが重要である。解像度主義は、高解像度の写実絵画に反対するものではない。細密に描く方法にも価値がある。ただし、写実表現の可能性を広げるのであれば、「さらに細かく描く」という一つの方向だけに限る必要はないと考える。

 情報を増やす方向があるなら、情報を減らす方向から写実性を考えることもできる。

高解像度と低解像度のどちらが優れているかを問うのではなく、解像度の違いによって、人の見え方がどのように変わるのかを考える。

だから「低解像度主義」ではなく、「解像度主義」なのである。

 

5. 知覚の臨界

 Cougarが目指しているのは、解像度を変えることで、見え方がどのように変わり、どこで一つの像が成立するのかを絵画として示すことである。

近くでは色の集まりに見え、離れると一つの像になる。その途中には、まだ何であるかはっきりしないにもかかわらず、少しずつ何かが見え始める領域がある。

 Cougarが「知覚の臨界」と呼ぶのは、その境界である。そして、その境界は見る人によって少しずつ異なる。

よく知っている物なら、早い段階で像として見えるかもしれない。記憶に残っている風景なら、少ない情報からでも像が浮かぶかもしれない。さらに、距離だけでなく、光や見る時間によっても見え方は変化する。つまり、像は画面の中だけで完成しているわけではない。作品にある情報と、それを見る人の知覚が結びつくことで、一つの像として成立する。

 解像度主義とは、解像度を手がかりに、「見ること」と「像が生まれること」の関係を絵画として考える試みである。技術の進歩によって一度は役割を失ったその方法は、油絵に置き換えられることで別の意味を持つようになった。かつて写実的に見せるための技術だったものが、現在では、人がどのように像を見ているのかを考えるための絵画へ変わっている。

そして写実性を、

「どれだけ細かく描いたか」

だけではなく、

「どれだけの情報から像が成立するのか」

という別の方向から考える。

 

そこから、Cougarの「解像度主義」は生まれている。